福島県大熊町-聞き覚え、耳覚えある方もいると思います。2011年3月11日、東日本大震災に見舞われ原発事故が起きた最も中心地域の一つで、2022年6月に特定復興再生拠点区域の全域避難解除がなされたばかり。まさにこれから復興がスタートする街に、100年前から大熊町で農業を続け、避難を余儀なくされながら避難先の千葉県香取市で新たにキウイフルーツ栽培に取り組む5代目となるフルーツガーデン関本の関本元樹(23)代表を訪ねてきた(鶴田)。
キウイフルーツ栽培だけでなく農業も諦めたかけた
「おはようございます」少しはにかんだ声の先に現れたのは、昨年、京都の大学を卒業し跡取りとなった関本さんとその傍らに柔和な笑みを浮かべる、3代目の祖父、好一さん(88)。好一さんは大熊町で誰よりも早くキウイフルーツ栽培に取り組み、その可能性に賭けてきたが77歳の時に見舞われた大災害。キウイフルーツ栽培だけでなく農業も諦めたかけたその時に、避難先に選んだ千葉県で農業を継続したのが元樹さんの父、信行さんだった。「大熊町に気候が似て温暖で、適度に雨も降り、土壌も含め栽培に適しているんですよ」と元樹さんが笑う。ところが、再び関本家に大きな苦難が襲う。父の信行さんが2017年に病に倒れてしまった。帰らぬ人となった父に代わり、元樹さんが「継ぐ」ことを決意した瞬間の経緯を話してくれた。
〝中継ぎ〟として再登板した祖父
とは言え元樹さんはまだ大学進学を控えていたこともあり、〝中継ぎ〟として再登板したのが祖父だった。80歳を超えていた祖父は「庭いじりより農園に居たほうが健康的でした」と、持病もいとわず父が育てた梨をメインに祖父が得意とするのキウイフルーツ栽培に取り組み元樹さんの大学卒業を待った。「大学1年生の時に祖父と植えたキウイフルーツの樹がこれなんです。ゴールド大熊って名付けたんです」と、指さしながら微笑む元樹さんは2022年、5代目となり、祖父の持つノウハウ「一年中草を生やす完全草生、安心して食べてもらえるように減農薬、草を生やすことと減農薬で作り出された微生物によって土をふかふかにする不耕起を実施しているんです。さらに色々あるんですが樹木の選定は二本主枝八本亜主枝で果実を付けることです」と、祖父とともに育ててきた7㍍間隔に1反(30㍍×30㍍)に18本、計3反に植えたキウイフルーツの樹木へ目線を送る。
市場に卸すことは考えていない
栽培方法や魂を伝授されただけでない。自らが率先して昨年、ECサイトを立ち上げ全国にフルーツガーデン関本のキウイフルーツを販売開始。「収穫量が増えても市場に卸すことは考えていません。ECも含めすべて直販しようって考えました。サイトの管理、運営も自分の役割です。ECで販売してると消費者の声を直接聞けるんです。一人でも多くの人にキウイフルーツを好きになってもらいたいんです」と、熱く話す次のプロジェクトもすでにスタートさせている。
全国にキウイ農家の仲間を作って行きたいんです
園内に建設し終えた直売所の運営。「次の収穫が始まる10月からスタート予定です。母のアイデアもあり地元のサツマイモで使った焼き芋も販売予定です」。キウイフルーツに加え地元産品の販売も視野に入れた施設は、園内に入ってすぐに建設を終えたばかり。木造建て2階の1階部分を見ながら、さらに「今は祖父と祖父の教えを受け継ぎながら、ゆっくり成長していいと思っています。でもゆくゆくは僕よりも若い人たちに農業やキウイフルーツ栽培のノウハウを伝授してこの地域や全国に担い手の仲間を作って行きたいんです」、直売所には人が集まる役割も可能にした運用を視野に、明るい目標と夢を語る。
100年に1度の震災に見舞われたからこそ
100年に1度クラスの震災に見舞われたからこそ決意して揺るがない「100年後も続く農園つくり」。それは単に関本一族だけの夢でなく日本の、世界の多くに知ってもらいたい、発信し続けたい思いでもある。だからこそ100年続けてきた農法に新しい技術を加え、多くの仲間を集い、新しい挑戦を加えながらこれからも突き進む覚悟を話してくれた元樹さん。最後に「もう一度食べたいと思ってもらえる果物を作りたいです。キウイフルーツを知らない人や苦手な人に喜んで食べてもらえるようにしたいです。人気果物になるように」と熱く語った後に「まだまだ未熟ですよ」と、再びはにかむ姿と言葉にはどこにでもいそうな若者と何も変わらない。その視線の先には、黙々とそして柔らかい笑顔で作業を進める祖父の姿があった。
Writer:鶴田浩之(元スポーツニッポン新聞社)